彩の録

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安倍晋三銃撃事件は、テロではない

テロリズムとは、一般大衆を畏怖させることで政治目的を達成しようとする手法のことだ。デモクラシーの社会では一般人が為政者だから、「一般大衆をビビらせれば政策を曲げられるだろう」というのがテロリズムの発想である。

安倍晋三暗殺事件は、テロではない。

犯人の動機は、いわゆる統一教会への非難と復讐だ。安倍晋三統一教会と相互に支援しあう関係者だから、安倍晋三が標的になった。そして参院選の活動で街に立っていたから狙いやすかった。

 

政治と宗教はもともと密接不可分なものだ。近代になってようやくハッキリと政教分離のコンセプトが確立したにすぎない。

イスラム教が政教一致なのはもちろんのこと、もともとのキリスト教カトリックにせよ、儒教にせよ、政教一致だ。そもそも、政教一致とか政教分離とかいう概念がないのだ。もともと、国家社会の在り方を設計する思想であり、政治と宗教は同じものを別の視点からみたにすぎない。

例えばいまのプーチンのロシアにしても、その国家主義、封建主義、全体主義的な国家社会の在り方は、いわゆるロシア正教東方正教会モスクワ総主教)と密接不可分なのだ。ソ連時代が政教分離のはずだっただけに、プーチンのほうがヌルッと政教一致しているからなおさら始末に悪い。

 

そもそも政教一致が普通だったのだ。そんなだから個人の尊厳が相対化されて、国家社会全体のほうが優先される。そして異質な者がヘイトされて社会から消される、排斥的な、ダイヴァーシティ&インクルージョンと正反対な社会になる。

 

日本人をはじめ東洋人には、儒教思想が完全に定着している。信仰の自覚が欠けるほどに、完全に実装されている。

だから、「世のため他人(ひと)のため」といい、個人の尊厳を矮小化して滅私奉公を美徳とする。「よそのことには首を突っ込まないで、言われた通りに自分のことに専念しろ」という、つまり所領安堵と一所懸命の社会設計がいまでも維持されている。だから、自分のことに必死で、よそのことには無関心でいる。「国家政府や誰かがなんとかしてくれるだろう」という依存、あまえで成り立っている。国家権力自身がそういう国にしておいたほうが都合がいいわけで、安倍晋三も「結果が全て」(結果さえよければいい)という発想の権化だった。

 

日本人にせよ、統一教会にせよ、中国の儒教という宗教が根底にあるのである。教祖教団が決めた相手と結婚するなんていうのも、全体主義的、封建的な発想のあらわれだろう。こういう東洋人にとって、婚姻制度というのは社会のためにあるのであって、ヒトや個人のためにあるものではない。だから例えば同性婚も許せないのだ。男尊女卑で家父長制で、そしてその男でさえも国家社会の手駒、歯車にすぎない。

そして、どちらが強いか偉いか、マウントをとりあう競争になる。強弱という発想しかない。二元論で認知が歪んでいる。だから、大日本帝国も韓国などを隷従させようとし同化政策を進めた。そして統一教会では韓国人の男と日本人の女を結婚させたりする。同化政策とは言い換えればジェノサイドだ。

 

とにかく、政教一致なものだし、その宗教が全体主義で個人を搾取する。信徒を隷従させて搾取し、身を滅ぼしても自己責任だというのが、カルトの理屈だ。そういうわけで、カルト教団を攻撃しようとしたときに、その標的が政治家に向いたのも必然のことなのだ。

テロではない。

 

安倍晋三にせよ、スガにせよ自民党のような封建主義の全体主義者勢というのは、国民は奉公しろ、儲けて貢げ、と言う。貢げない国民は足手まといで邪魔だという。お国のために出産しろ、と言う。国家社会の設計に反するような革新を徹底的に否定する、「ワガママだ」とぴしゃりと全否定してしまう。

そして、国家社会の犠牲になっても、せいぜい「軍神」みたいに犠牲者としてまつられるくらいで、実際にはたいがいは「自己責任だ」ですまされる。

 

現実には、完全な自由意思というものは存在しないし、人は生まれながらにずっと運不運があり差別がある。その不利益を個人におしつけて、自助しろという。

日本人とはそういうヤツ。

 

統一教会にせよコンプライアンスうんぬんいうけど、日本人にとってコンプライアンスとは、マスコミをはじめ全国家的に「法令順守」と誤訳されている。

実際には、コンプライアンスのは社会適合性のことだ。社会倫理に合っているか。他人の精神状態を狂わせて、それに乗じて搾取して、それでも自己責任だというのは、コンプライアンス違反である。

それを「法令順守」だと誤訳し歪曲するものだから、法令に違反しなければなんでもやるような連中になるのである。日本人とは。