彩の録

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宮型霊柩車が少なくなった理由

 

 

簡単にいえば、葬式の目的が変わったから。

 

昭和時代からある迷信に「霊柩車を見たら親指を隠せ」というものがある。同じように救急車でもそういう迷信がある。なぜ親指を隠すのか? それは「親をとられないようにするため」だという。

日本は儒教社会で、いいかえれば封建社会世襲制社会だ。長男が父親を継ぐ。親孝行をしなければならない。生は絶対善で、死は悪。自殺は絶対悪。親より先に死ぬのは悪。子孫繁栄が善で、子がいないのは悪。

 

儒教社会では葬式の目的は、故人の後継者の正統性を世間に示すこと。スムーズな権力移行のため。ピラミッドや古墳と同じように。だから、たいそう立派な葬式をやって、多くの参列者を集める。喪主は、ド派手な祭壇をしつらえて、格のある寺院から「導師」を呼んで沢山「包んで」ゴツい戒名をもらう。葬式は沢山お金をかけるのがよくて、参列者からの香典を集めてまかなう。逆にいえば、香典をさしだすことは後継者を承認することを意味する。

大きな会場でとりおこなう。霊柩車も葬式のセットの一つだ。祭壇とおなじで、立派な造作をあつらえた車がよく、会場近隣にも見せつけることになる。

 

しかしいまの社会状況はそうではない。

日本の人口は増え、いまや高齢者人口が多い。時代の変化は速くなって、家業を継ぐことは減った。会社員のように資本をもたない職業の人が増えた。

子孫の数は減った。核家族化した。交流の深い親類の人数が少ない。

故人も子も高齢者が多い。遺族も、自分が死んだときの葬式について考えるようになった。「自分が死んだときに迷惑をかけたくない」と思うようになった。また、大々的な葬式で自分が見せものにされるのはイヤだと思う人も多いだろう。派手な葬式をやっても採算はとれない。参列者も香典もたかがしれている。だから「ベルコ」みたいに、廉価で金額が明瞭で、あらかじめ資金を積み立てておくようなのが増えた。

いまの日本では、人の死は日常的だ。人はいずれ死ぬ。しかも死ぬ人が多い。「死」について考えることから逃れられない時代だ。

そうすると葬式の目的が、世間さまに見せつけることではなく、遺族のグリーフケア、死の意義をみいだすレジリエンスになった。いわゆる家族葬のような、小規模で静かな葬式のニーズが高まった。

派手な祭壇も霊柩車も要らない。「導師」が果たすべき務めは、権力移行に「箔をつける」ことではなくて、遺族の癒やし、カウンセリングになってくる。さらには、宗教者ではなく医療関係者が求められてくるかもしれない。

 

日本人は「無宗教」といったところで、昔ならば何でもかんでもよさそうなものを寄せ集める、いわば多宗教・無節操だった。いまは、いかにコストパフォーマンスを高めコンパクトにするか、宗教の意味が問い直されている。